御嶽大神

神社名 御嶽神社

オーナー近影


○鎮座地
 〒402-0012 山梨県都留市与縄一八九番地

○境内
 境内地二九三坪

○祭神
 素盞鳴尊
 大己貴命
 少彦名命

○神事用具
 神楽奉納
 ・春祭りは四月十六日に行われる。
  上手、日向、日影の三部落別々に行われている
 ・秋祭りは三部落一緒に御嶽神社の祭りを行なう。


与縄御嶽神社 社史

平安時代
天承元年(一一三一年) 崇徳天皇
源義政公が日影の西南山腹に隠城(奈良城)を築く。
※二条天皇(1158年~)の御代に主将の一人
御嶽大権現 谷内観世音を城の守護神として奉祀する。
谷内観世音は天正寺に奉祀あり。
安元貮年(一一七六年)
一月十一日 源義政公が逝去される。
源頼朝公の従弟が治栄・寿永の乱で平氏と戦う。
※臨済宗妙心寺派天正寺
鎌倉時代
正治元年(一一九九年)
雛鶴姫の尼法師 源義政公の法名を天正院殿聖山賢公大居士と改む。
舞鶴姫は、後醍醐天皇の皇子護良親王の寵姫 親王の首級を持って鎌倉を逃れる。
秋山村の無生野で産気づき、綴連(つづれ)王子を産むが、間もなく二人とも亡くなってしまう。
姫と王子の霊を慰めるために、無生野大念仏講がおこる。
文永六年(一二六九年) 後嵯峨天皇
三月十一日 源義政公が逝去された後、守護者がいなかったため、村民協議の上御嶽大権現を氏神として、矢竹山山麓に遷祀する。
※日向の共同墓地あたり
矢竹山崩壊により、御嶽神社 天正庵 民家が埋没する。
この後、井倉生出神社に一時合祀される。
江戸時代
寛永六年(一六二九年)
三月十一日、矢竹山が崩れ落ち、社殿が埋もれてしまったので 一時井倉の生出神社に合祀した。
宝暦十三年(一七六三年) 後桜町天皇 徳川吉宗(8代)
十二月、社殿を建築し現在地に遷祀される。
   社地の実測:562坪 ※本殿 神楽殿あり
     神 妙:武運長久 ※家内安全 字 竹の花
     神 職:柴村圓宮 長田文吾
元神社の氏子区域:與縄組 70戸【のち100戸(T4)】
     ご神体:矢の根石(源義政公御神林として奉祀せしもの)
大正時代
大正四年(一九一四年)
十一月十日、天皇陛下御即位にあたり、社寺局へ提出。
 社 掌:長田文吾
氏子総代:谷内久次郎/谷内新次郎/野武久吉 ※大正四年 九月十九日 書
昭和
鳥居 石垣の大修理
平成
平成四年(一九九二年)   神楽同好会
平成五年(一九九三年)   神楽保存会
平成七年(一九九五年)   谷内邦男氏より獅子頭寄付をいただく
平成十七年(二〇〇五年)  水道設備を設置
平成十九年(二〇〇七年)  小学生を保存会に誘い笛の稽古を始める
平成二十一年(二〇〇九年) 台車作成
平成二十五年(二〇一三年) 高齢者の集い
              宝くじ助成金を受領
平成二十七年(二〇一五年) 会長 臼井邦春
平成二十八年(二〇一六年) HOTELマウント富士にて韓国のお客様に披露
令和
令和元年(二〇一九年) 朝日小沢の神楽保存会と交流
            社殿修復のため保存会で調査
            ※氏子総代の理解得られず修復計画頓挫
令和二年(二〇二〇年) 新型コロナウイルスの猛威により、獅子舞の奉納は保存会のみで実施
令和三年(二〇二一年) 令和二年同様
令和四年(二〇二二年) 令和二年同様

令和十三年(二〇三一年) 創祀900年
 
※別の伝説
藤原豊後守義政の守護神であったものを、後に村人が氏神として今の地に祀るようになった。
明治五年村社に列せられた。

方針

(1)地域の祭典・伝統行事等への参加・協賛。

(2)後継者育成を円滑に進めるための活動・事業の推進。

(3)神楽囃子関連用具の保持・管理に関すること。

(4)地域の青少年の健全育成に寄与する事業の推進。

(5)練習場である与縄営農指導センターにある芝生の維持・管理に関すること。

(6)その他、本会の目的達成に必要な事業の企画・推進。


祭典の風景

教室風景
使用楽器
使用教材